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岡崎教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法会

岡崎教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法会~寺を開かれた念仏の道場に~

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御遠忌通信

「講師事前協議会 その3」

真城 義麿 × 戸次 公正 × ケネス タナカ

聞き手 渡邉 晃純

岡崎教区御遠忌法会円成に向けて、この御遠忌を教区に関わるすべての人を挙げての取り組みとし、ともに宗祖の御遠忌に遇い、より課題を共有するべく、讃仰講演会並びに御遠忌法会に向けた講師との事前協議を行いました。

真城 義麿 氏

同朋会運動について

私は同朋会運動が何をしようとしてきたかが自分のなかでは今ひとつわからないのが正直なところです。家の宗教に魂を吹き込むべく、推進員養成講座で推進員を多く生み出してきたが、結果として推進員となった人は家の中で浮いてしまっている孤立した人が多いのが現状ではないでしょうか。宗祖七百回御遠忌を機に、宗祖への深い慚愧(ざんき)から「家の宗教から個の自覚へ」のスローガンをもって同朋会運動が創始されましたが、世の中の個人主義の風潮に流され、「個の自覚」がその風潮の後押しのように履き違えられてしまった部分もあったと思います。私は、「個」の自覚は「機」の自覚と置き換えたほうが明確であると思っています。

「寺をひらく」

真城 義麿 氏

 「寺をひらく」という言葉は、お寺が僧侶の私物となっていることが前提になっていることに疑問を感じます。本来、お寺は寺側の都合で開いたり閉じたりするものではなく、人が住む場所において、念仏の道場が必要であったからお寺が置かれたはずです。家の中にお内仏があるのも、人が家の中で自分の弱さ、流されやすさに気づき、我に返り、自分を見つめる場(浄土)を必要としたから、お内仏が置かれたのではないでしょうか。かつて、京都の六地蔵に団地が造成されると聞いた大谷高校の廣小路亨先生が、団地の土地を一角買って、大谷幼稚園をひらかれました。

「人が住むところには聞法の場が必要だからつくった」。「お寺があってくれて有り難う」とはどういう形なのかをもう一度考え直してもいいと思います。そういう面からも、僧侶がもっと町を歩いている人たちが「表層的なところ」ではなく「根源的なところ」で何をお寺に期待しているのか、欲しているのかを知ろうとするべきではないでしょうか。そのことが、人の根源の深い願いを掘り起こすことにもなるはずです。
四国は真言宗の多い土地であり、真言宗は仏教の頂点であり、真宗は下に位置するという上下関係があります。そういう相手に対して、他宗は外道であると真宗側から関係を断絶してしまい、真宗は正しいのに、なぜ人は真宗の教えを聞こうとしないのかという発想が根底にあると思います。もう少し、寺に参拝する側の立場に立って考える必要もあるのではないでしょうか。

「わかる」ということ

 そういうことから、私も教えを伝えるために様々な方法で「わかり易さ」を追求してきたが、その過程で「わかる」ことの怖さ、「わかる」ことで問いの歩みを止めかねない、「正解を求める」危険性を感じています。たとえば「原発問題」に対する真宗門徒としての「正解」は何ですかと聞かれることがありますが、自分自身を問わず、絶対の「正解」を求めることに意味があるでしょうか。提婆(だいば)達(だっ)多(た)の捉え方ひとつとってみても、真宗と日蓮宗では異なってくる部分がある。「人類に捧げる教団」と謳いながら、真宗の「正解」を求めて、それを大切に握りしめて他宗教やいろいろな人との対話を遮断してしまうのではないでしょうか。現代は、特に善悪二つに一つという風潮が強く、物事を単純化して、グレー(黒もあって白もある状態)であることが許されない。悪いことをした人には悪いことがあればよいのにという。いじめでもそうですが、片方が悪で、片方が善であるなんてことはあり得ないし、その入れ替わりも激しい。

次世代への念仏相続(本願念仏に生きる人の誕生)

 現在の二十五歳以下の若者はものごころついてからこのかたデフレしか知らない世代であり、時が経つほど物価は下がっていくというのが常識であると考えていた世代です。その世代を中心に、もうお金に振り回されたくないという空気が醸成されてきていると感じます。我々の世代のように、たくさん稼いで、そのお金で物を買うという段階から次の段階へ移りつつあるのではないでしょうか。そういう次世代へお念仏の相続を考えるには、お内仏・お念仏が何故これまで大切にされてきたかを考えることが必要ではないでしょうか。京都の岡崎別院では『子育てを仏教に聞く』をテーマに講座があり、近所やスイミングスクールにチラシを置き、託児室も用意しました。そこで生まれて初めてお寺に来たというお母さん達がたくさんいます。また、経営コンサルタントを職にするある人が、自分の仕事がうまくいけばいくほど泣く人が増え、世の中がどんどん悪くなっているという思いに耐えられなくなったと告白しました。「完全合理主義」、「下請け切り」、「派遣切り」そういうことを突き詰めていくと、究極的には人が不要であるのではないか、そういう悩みを抱えているのが現代人であります。そういう人たちがお寺に来ることで、お寺というのは自分たちに関係のあることを伝えようとしてくれていたのだと初めて知りましたと皆が口を揃えて言っています。仏法の伝え方は決して何かに縛られるのではなく、いろいろとチャレンジしてみて「数打てば当たる」という部分も必要なのかもしれませんね。