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岡崎教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法会

岡崎教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法会~寺を開かれた念仏の道場に~

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御遠忌通信

「講師事前協議会 その1」

真城 義麿 × 戸次 公正 × ケネス タナカ

聞き手 渡邉 晃純

岡崎教区御遠忌法会円成に向けて、この御遠忌を教区に関わるすべての人を挙げての取り組みとし、ともに宗祖の御遠忌に遇い、より課題を共有するべく、讃仰講演会並びに御遠忌法会に向けた講師との事前協議を行いました。

渡邉 晃純 氏

渡邉 晃純 氏
(教区御遠忌法会実行委員会本部)

岡崎教区では、教区御遠忌法会の趣旨(教区御遠忌通信№1掲載)である「真宗の仏事の回復」「本願念仏に生きる人の誕生」「寺を開かれた念仏の道場に」を柱として教化に取り組んできました。こうした教区の願いをふまえ「教化センター構想」をとおして住職が本音で語りあい、そして発言したことが自分に返ってくるような場としての寺づくりを、という意味から「寺を開かれた念仏の道場に」を二十年来教区教化テーマに掲げてきました。
「同朋会運動」というと何か特別なことをしなければならないと思いがちですが、実際には葬儀や法事では多くの人々が来られています。事実は、しかしながらその場が、念仏の教えが伝えられていく場、回復の場として、これらの儀式の場がなかなか根づいていってはいないのではないかと思われます。「私は儀式をこうしたい。このことについて何か良い参考となる資料なり、実践例は」といった意見は、出てきていないように思います。
こうした意味から、日本は親鸞聖人が明らかにされた南無阿弥陀仏の教えにとっては、日本語の通じる「開教区」であると言ってよいのではないかと思います。何故なら、「本願」、「成仏」、「念仏」と言っても、いまの日本では、生きる上で、真剣に向き合わねばならない言葉であるという意味では受け止められているとはいえないからです。
そうした葬儀・法事という儀式の場は、平生仏教に出遇う機会のない人々にとって、仏教にであう貴重な機会と成っているでしょうか。
同朋会運動五十年間の歩みをふまえて、自分たちがやれること、出来ることを考えてみるという視点からの反省が少ないような気がします。その上で岡崎教区の「地域教化センター」という構想も、依存関係ではなく、自分たちが当事者として、組や寺の動きがサンガ形成になっていくようにという願いに立っての取り組みだといえると思います。
今回はこうした願いから講師をお迎えしております。真城先生は学校という場で若い世代との接触をとおしての経験を、戸次先生からは「真宗の仏事の回復」について、ご自身の試みから体験されていることを、また、ケネス先生には、アメリカ仏教のなかにあって、親鸞聖人に向き合ってこられた経験をお話し願えればと思っています。