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真宗大谷派三河別院

しんしゅうおおたにはみかわべついん
名称 真宗大谷派三河別院
所在地 444-0015
愛知県岡崎市中町字野添25番地
電話番号 0564-21-0625
FAX番号 0564-21-0728
ホームページ https://mikawabetsuin.jp
交通 名鉄「東岡崎駅」から徒歩15分
名鉄バス「徳王神社前」から徒歩5分

三河地方は、すでに親鸞聖人在世中に門徒団が形成された古い土地柄である。そして、蓮如上人期以降本願寺化し、近世を通じて在地の三ヵ寺(上宮寺・勝鬘寺・本證寺)が大きな勢力を有し、地方支配を荷った。そして門末が集中する西三河地方の南端に、赤羽御坊が十八世紀末に成立し、また天明8(1788)年の本山焼失直後、三河教団の支援対策拠点として中央部の東海道沿いの暮戸に会所が設置された。以後ここが、実質的に西三河地方の中央施設としての機能をもった。
下って明治度の両堂再建の最中、相続講の施行によりその事務取扱い施設の必要もあったものか、赤羽別院と暮戸説教場(会所改め)を岡崎に移し三河別院とし、赤羽を支院にする旨の通達が厳如上人譲職前日の、明治22(1889)年10月6日に出された。そして新購入された現在地に、明治6年開校の三河教校の合議所を移築し仮本堂とし、翌23年4月8日仮入仏法要が勤修された。
ところが、赤羽別院と暮戸説教場の岡崎移転に地元門徒が存置陳情したため、あらためて丹後峯山別院を移転し三河別院となし、同年9月22・3日に入仏・供養会が勤修された。現在の御本尊が峯山別院以来のものであり、同時に太子・七高僧も授与されている。
そして翌年、明治天皇行在所の御殿を同地の専福寺より譲り受け、29年7月に鐘楼が落成したが、翌8月30日の暴風雨のため仮本堂が大破し急遽御殿を仮本堂とし、仏祖動座した。さらに同32年対面所の落成に及びこれを本堂とした。
こうして同36年、本山旧仮大師堂を本堂とすることが決せられ、日露戦争のため工事が遅延したが、同40年上棟式直前にまたもや暴風のため倒壊した。ただちに新材を加えて再建工事が始まり、同42年12月彰如上人御親修にて入仏法要が勤修された。諸殿が次々と新造され、大正6年宗祖六百五十回御遠忌法要厳修に至り三河隋一の大念仏道場が現出した。
また、大正14年には「燕岡幼稚園」が設立され、戦後は「燕ヶ丘保育園」として幼児教育の地域社会への貢献は現在に至る。
しかして、昭和20年7月20日の岡崎空襲により念仏の大殿堂は灰燼に帰した。ただちに廃墟から立ち上がり、同25年に仮本堂を建て、同45年に現本堂の完成を見た。さらに同63年に庫裡が落慶し、別院創立百周年・親鸞聖人七百回御遠忌法要が厳修された。続いて平成元年には新御殿「香光殿」、同7年に旧茶所を東別院会館へと前面改築がなされ、三河の中心道場としての機能を回復するに至った。
それにしても、明治4(1871)年の大浜騒動に象徴される維新の波を超え、同14年から6年に及ぶ本山再建の製瓦のエネルギーは三河別院創設と度重なる諸殿再建へと引き継がれた。三河門徒の報謝行の軌跡が、次代へどう受け継がれるかが、別院存在の大きな意義といえよう。
【出典:『真宗』誌 2002年10月号「別院探訪」 真宗大谷派宗務所 発行】

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