名称 | 真宗大谷派赤羽別院親宣寺 |
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所在地 |
444-0427 愛知県西尾市一色町赤羽上郷中14番地 |
電話番号 | 0563-72-2308 |
FAX番号 | |
ホームページ | http://www.katch.ne.jp/~akabane_betuin/index/1betuin/index.html |
交通 |
【公共交通機関】①名鉄西尾線『吉良吉田駅』下車のち、ふれんどバス碧南駅行き『一色高校西』バス停下車、徒歩3分 ②名鉄西尾線『西尾駅』下車のち、名鉄バス『赤羽根口』バス停下車、徒歩10分 ③名鉄三河線『碧南駅』下車のち、ふれんどバス吉良吉田駅行き『一色高校西』バス停下車、徒歩3分 【自家用車】愛知県立「一色高校」の横になります。 |
赤羽別院親宣寺は、侍の菩提寺を前身とする全国的にも特異な別院といえる。すなわち、江戸の旗本本目勝左衛門尉親宣の両親と本人夫妻の墓二基が、現在も境内墓地に建っている。この本目家に関する文書資料は別院には伝わらないが、この墓碑銘が親宣についてわずかに告げている。
それによると、本目勝左衛門尉親宣は上六名村(現、岡崎市)に生まれ、宝永元(1704)年5月21日、68歳で江戸で没しており、「信楽院殿釈了恵大法士」とある。
そもそもこの別院の始源は、蓮如上人所縁の道場ともいわれるが、また親宣は、江戸本法寺7世良秀の弟子となった熱心な門徒で、三河の地に菩提寺建立を念願したが、三河一色赤羽の道場のことを知り、領主である西尾藩主土井式部少輔利忠に願い出た。
こうしてこの地を与えられ、元禄13(1700)年許しを得て一寺を創立した。翌年真如上人より「本目山親宣寺」号と、絵像本尊並びに法名釈了恵を授与された。この絵像本尊は、今回の調査で破損著しいものの、存在が確認された。
その後の経緯は不明瞭であるが、寛政10(1798)年兼帯所(懸所)となり、輪番が配されたようである。さらに文政7(1824)年11月、御坊にふさわしい巨大な本堂が再建され、明治中期に三河全域の崇敬の御坊としてその機能を果たした。
しかし、昭和20(1945)年の三河地震で諸殿が倒壊し、さらに同34年の伊勢湾台風で本堂も倒壊してしまった。加えて戦後、境内地を隣接の一色高校に割譲交換し変形してしまうなど、別院としての機能は急速に低下し荒廃の色を濃くした。
永らく、一部残った旧詰所を仮本堂として教化活動がなされてきたが、昭和63(1988)年、老朽化した建物や運営体制の見直し、別院の存続をも含めて、桜部建正覚寺住職(当時)を中心に検討委員会が設置され、審議を重ねた。そして、教区はもちろん西三河南部崇敬部下の協力を濃密にし、別院機能の回復と活性化の諸方途が提案された。
その後徐々に機が熟し、平成5(1993)年から境内整備の準備に入り、同7年10月、小規模ながら(仮)本堂の新築が成り殿舎も修復され、親鸞聖人七百回御遠忌・蓮如上人五百回御遠忌お待ち受け法要と落慶法要が厳修されるに至った。
こうして赤羽別院は甦り、地域の教化拠点としての充実がはかられ、別院機能をほぼ回復しつつある。それにしても、本堂はじめ諸殿を失い境内地も変形した中で、幾度とない存亡の危機を救ったのは、奇跡的に残った山門の威容であった。昭和13(1938)年地元の篤信門徒杉浦米吉翁により一寄進されたもので、戦前の隆盛から一転戦後の廃虚同然の景観と復興を見続けてきた、赤羽別院が全国に誇る名門である。
【出典:『真宗』誌 2002年12月号「別院探訪」 真宗大谷派宗務所 発行】